1960年代後半から1970年代初頭にかけて、ラスベガスがマフィアの投資先から、近代的なビジネスに変化しつつある時期に、街のど真ん中で撮影が行われた日米の超娯楽作二作から転換点となった時代を学ぼう。併せて、街のイメージ・シンボルでもあるラスベガス・ストリップとフレモント・ストリートも解説。*ネタバレあり
「クレージー黄金作戦」(1967年 日本)
https://movie.walkerplus.com/mv21963/
「007/ダイヤモンドは永遠に」(1971年 アメリカ)
https://movie.walkerplus.com/mv5206/
「クレージー黄金作戦」はまさに、このようなラスベガスが大きく変わっていく動きの中、ど真ん中でロケを行ったわけだ。ハナ肇とクレージーキャッツが主演する、いわゆる”クレージー映画”というジャンルにもなっているシリーズは1962年から1971年にかけて、東宝と渡辺プロダクション(渡辺晋社長)が全30作制作しており、その中にもいくつかの小シリーズがあって、無責任もの2作、日本一もの10作、作戦ものが14作あり、黄金作戦は作戦もの10作目になる。博打好きの僧侶、町田心乱こと、植木等が借金返済のため、植木に金を貸していた債権者が常務をしている会社でタダ働きをさせられるのだが、ラスベガスのカジノで一発当てようと考え、交通費を計算するシーンがあり、ハワイ経由ロサンゼルス乗り換えラスベガスまでの片道航空運賃が413ドル、日本円にして14万8,680円と出るのが時代を感じる。会社の壁には1970年の大阪万博のポスターが貼ってある。植木は、ただ働きさせられている会社の間違いでロサンゼルスに行くことになるが、そこに、それぞれ事情のある政治家のハナ肇、医者の谷啓も飛行機でたまたま並びの席になって、珍道中が始まる。
この映画は東宝創立35周年映画で、翌年公開された「クレージーメキシコ大作戦」(162分)に次ぐ157分の超大作だ。記念作という事で、ラスベガス・ストリップやフレモント・ストリートを使った屋外ロケでのダンスシーン、さらには、当時の超一流カジノ、リビエラ・ホテルで行われたという設定のショーはもちろん、ラスベガスに行く途中に経由するハワイのワイキキビーチでの加山雄三と植木等の初共演(実際は別撮りを編集したものだが)も見逃せない。実際に、リビエラ・ホテルの電飾看板で、トニー・マーティン&ルイ・アームストロングと言う実在のスターの下に、「クレージーキャッツ・プレゼンテッド・バイ・ワタナベ・プロダクションズ」と、本物の看板まで作っている。ショーの企画構成は谷啓とハナ肇、このシーンのみ、監督が和田嘉訓という力の入れよう。クレージーの面々のほかにも、ザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツ、ジャニーズなどが、当時ブームを起こしていたヒット曲「ウナ・セラ・ディ・東京」を歌って踊りまくる。ショーの部分は日本で撮影したものだが、アメリカの晴れ舞台でのパフォーマンスは、渡辺社長の夢だったろう。植木等とハナ肇、谷啓はリビエラ・ホテルのカジノで、ルーレット、スロットマシン、ブラックジャック、クラップスに興じる。
ハナ肇とクレージーキャッツ(1955~1993)は、一時代を画した伝説的なコミックバンドで、この映画にも出ているザ・ドリフターズ(のちに移籍)やザ・ピーナッツとともに、渡辺プロダクションを代表するタレント。メンバーはリーダーでドラムのハナ肇に、ギター、ボーカルで大人気だった植木等、とぼけた味わいが植木と人気を二分したトロンボーンの谷啓、この他、桜井センリ、石橋エータロー、安田伸、犬塚弘の7名がメンバーだ。渡辺プロダクションの渡辺晋社長は海外進出にも熱心で、ザ・ピーナッツはアメリカの人気テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」や「ダニー・ケイ・ショー」にも出演している。ジャッキー吉川とブルーコメッツは「ブルー・シャトウ」など、数多くのヒット曲で知られ「ブルコメ」という愛称で呼ばれた。ジャニーズはジャニーズ事務所の初のタレントで、ジャニー喜多川がプロデュースした。どちらも、渡辺プロダクションと業務提携していた。
ラスベガスでの画期的なロケで歌うのは、脚本の田波靖男作詞、宮川泰作曲の「ハローラスベガス―金だ金だよ」。歌詞は徹底的に「金」を歌い上げ、キラキラギラギラして夢があふれるラスベガスを描いている。植木等、ハナ肇、谷啓の三人が、お金が無くなって、ロサンゼルスから有り金で行けるところまでグレイハウンドバスに乗るのだが、ネバダ砂漠の途中までしか行けず、飲み水もない中、砂漠を超えホコリまみれの姿でついに到着したラスベガスで歌い踊り始める。着いたのが夜で、ラスベガス・ストリップのザ・デューンズ(現在のベラージオの場所)やアラジン(現在のプラネット・ハリウッドの場所)、ハシエンダ(現在のマンダレイ・ベイの場所)、シーザーズ・パレス、サハラ、スターダスト、サンダーバードなど続々と、当時の人気カジノの今とは全く違うネオンサインが挿入され、そこに、桜井センリ、石橋エータロー、安田伸など他のメンバーも参加、中でもネイティブ・アメリカンの酋長に扮した犬塚弘が異彩を放つ。全員集合してからは、ハナ肇に「ここは日本じゃないんだ。ラスベガスだぞ。真面目にやれ!」と檄を飛ばされ、最後はフレモント・ストリートを通行止めにして、大勢の見物客の前で、きっちり踊って締める。撮影日数は全く取れず、足りない分は日本で撮影した部分(深大寺植物園の駐車場)を編集して補った。フレモント・ストリートを通行止めにしての撮影は、フランク・シナトラやディーン・マーチンらラスベガスの顔役芸能人グループ、ラット・パックでもやらなかった快挙で、実現したのは渡辺晋社長の辣腕か。
ラスベガス名物の簡易結婚式場も出てくる。1967年当時は、18歳以上で身分証明書と、あとは、終日営業の役所で簡単に申請ができるクラーク郡のマリッジ・ライセンスがあれば結婚できるという事で、よく映画のネタに使われていたが、ここでは、悪党一味が谷啓をだまして、結婚式を挙げさせる。最終的に谷の持っていた、金貨を隠した廃坑の地図で100万ドルの金貨を探し当て、植木、ハナ、谷の3人は33万ドル(当時のレートで1億2,000万円)ずつ分けるのだが、植木は「八丈島を買い切って、ラスベガスに負けないような大博打場を開く。そして今まで博打はイカンと俺に意見したやつらを全部招待して素っ裸にして返すよ」と夢を語る。1960年代の日本で本物のラスベガスが描かれることが珍しい中、日本型IR実現に向かっている現状を予見したセリフに痺れる。
そこから最終コーナー、ギャングに襲われてカジノの中を3人が逃げ回る中、ルーレットに100万ドルの金貨の袋を落としてしまい、「00」に賭けたことに……。ところが、この「00」が大当たりで、なんと3,600万ドル(130億円)。しかし、このお金も最後は、ヒロインの浜美枝にはめられて、誰でも治療が受けられる病院建設に寄付して大団円。
ショーの舞台やカジノシーンなど、メインで出てくるリビエラ・ホテルは1955年にラスベガス・ストリップに9番目にオープンした老舗カジノで、高層階のリゾートとしては初で、デザインも革新的だった。オープニングはクラシックとポップスを融合させて大人気だったピアニスト、リベラーチェで、彼は常設のレジデントパフォーマーとなった。しかし、その後紆余曲折を経て、ラスベガスの各ホテルがテーマパーク化しIRに変化していく中、存在価値を失っていき、2016年に破壊され、跡地はラスベガス・コンベンションセンターの拡張に使われた。
ダンス・シーンでフィーチャーされる、街を代表する中心街、ラスベガス・ストリップだが、マッカラン国際空港から北に延びるラスベガス・ブールバード(大通り)のうち、東西に交差するサハラ・アベニューからラッセルロードまでの7本の道の間、長さ4.2マイル(6.8キロ)のエリアを指す。客室数で全米30傑のうち22のホテルがここに集まっていて、総客室数は84,000室を超える。このエリアに初めて開業した本格的なカジノは1941年のエル・ランチョ・ベガスで、次いで1946年にIRの原点ともいえるフラミンゴ・ホテルが開業した。冒頭で触れたカーコリアンの1962年ストリップ一帯の買収から更に加速がつき、人気カジノが次々と建設されて、ラスベガスの繁栄の象徴となった。
https://movie.walkerplus.com/mv21963/
「007/ダイヤモンドは永遠に」(1971年 アメリカ)
https://movie.walkerplus.com/mv5206/
2時間37分の日本の娯楽超大作は1967年のラスベガスを真空パックした!
「クレージー黄金作戦」が制作された1967年の翌年、1968年に、セスナ機のパイロットから身を起こし、のちにメガリゾートの父ともいわれたカーク・カーコリアンは伝説のカジノ、フラミンゴ・ホテルを買収した。1969年にカーコリアンが開業するインターナショナル・ホテル(完成当時は世界最大だった)の従業員の研修にも使うためだった。彼はフラミンゴ・ホテルを買収する前にも、1962年、フラミンゴ・ホテルからラスベガス・ストリップの土地32.3ヘクタール購入しており、その土地をシーザーズ・パレスに貸して1966年にホテルが開業、1968年に売却するなど、エリア一帯の形成に大きく関与している。その後、1972年に映画会社「メトロ・ゴールドウィン・メイヤー」(MGM)を買収し、旧MGMグランド・ホテル・アンド・カジノを開業するなどしたが、1980年に2社に分社し、ホテルとカジノ部門がMGMミラージュとなり、現在のMGMリゾーツ・インターナショナルになった。映画部門はソニーを中心にしたコンソーシアムに売却されたので、今は関係がない。カーコリアンの一連の動き自体が、脱マフィア、近代産業化していくラスベガスの動きそのものだった。「クレージー黄金作戦」はまさに、このようなラスベガスが大きく変わっていく動きの中、ど真ん中でロケを行ったわけだ。ハナ肇とクレージーキャッツが主演する、いわゆる”クレージー映画”というジャンルにもなっているシリーズは1962年から1971年にかけて、東宝と渡辺プロダクション(渡辺晋社長)が全30作制作しており、その中にもいくつかの小シリーズがあって、無責任もの2作、日本一もの10作、作戦ものが14作あり、黄金作戦は作戦もの10作目になる。博打好きの僧侶、町田心乱こと、植木等が借金返済のため、植木に金を貸していた債権者が常務をしている会社でタダ働きをさせられるのだが、ラスベガスのカジノで一発当てようと考え、交通費を計算するシーンがあり、ハワイ経由ロサンゼルス乗り換えラスベガスまでの片道航空運賃が413ドル、日本円にして14万8,680円と出るのが時代を感じる。会社の壁には1970年の大阪万博のポスターが貼ってある。植木は、ただ働きさせられている会社の間違いでロサンゼルスに行くことになるが、そこに、それぞれ事情のある政治家のハナ肇、医者の谷啓も飛行機でたまたま並びの席になって、珍道中が始まる。
この映画は東宝創立35周年映画で、翌年公開された「クレージーメキシコ大作戦」(162分)に次ぐ157分の超大作だ。記念作という事で、ラスベガス・ストリップやフレモント・ストリートを使った屋外ロケでのダンスシーン、さらには、当時の超一流カジノ、リビエラ・ホテルで行われたという設定のショーはもちろん、ラスベガスに行く途中に経由するハワイのワイキキビーチでの加山雄三と植木等の初共演(実際は別撮りを編集したものだが)も見逃せない。実際に、リビエラ・ホテルの電飾看板で、トニー・マーティン&ルイ・アームストロングと言う実在のスターの下に、「クレージーキャッツ・プレゼンテッド・バイ・ワタナベ・プロダクションズ」と、本物の看板まで作っている。ショーの企画構成は谷啓とハナ肇、このシーンのみ、監督が和田嘉訓という力の入れよう。クレージーの面々のほかにも、ザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツ、ジャニーズなどが、当時ブームを起こしていたヒット曲「ウナ・セラ・ディ・東京」を歌って踊りまくる。ショーの部分は日本で撮影したものだが、アメリカの晴れ舞台でのパフォーマンスは、渡辺社長の夢だったろう。植木等とハナ肇、谷啓はリビエラ・ホテルのカジノで、ルーレット、スロットマシン、ブラックジャック、クラップスに興じる。
ハナ肇とクレージーキャッツ(1955~1993)は、一時代を画した伝説的なコミックバンドで、この映画にも出ているザ・ドリフターズ(のちに移籍)やザ・ピーナッツとともに、渡辺プロダクションを代表するタレント。メンバーはリーダーでドラムのハナ肇に、ギター、ボーカルで大人気だった植木等、とぼけた味わいが植木と人気を二分したトロンボーンの谷啓、この他、桜井センリ、石橋エータロー、安田伸、犬塚弘の7名がメンバーだ。渡辺プロダクションの渡辺晋社長は海外進出にも熱心で、ザ・ピーナッツはアメリカの人気テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」や「ダニー・ケイ・ショー」にも出演している。ジャッキー吉川とブルーコメッツは「ブルー・シャトウ」など、数多くのヒット曲で知られ「ブルコメ」という愛称で呼ばれた。ジャニーズはジャニーズ事務所の初のタレントで、ジャニー喜多川がプロデュースした。どちらも、渡辺プロダクションと業務提携していた。
ラスベガスでの画期的なロケで歌うのは、脚本の田波靖男作詞、宮川泰作曲の「ハローラスベガス―金だ金だよ」。歌詞は徹底的に「金」を歌い上げ、キラキラギラギラして夢があふれるラスベガスを描いている。植木等、ハナ肇、谷啓の三人が、お金が無くなって、ロサンゼルスから有り金で行けるところまでグレイハウンドバスに乗るのだが、ネバダ砂漠の途中までしか行けず、飲み水もない中、砂漠を超えホコリまみれの姿でついに到着したラスベガスで歌い踊り始める。着いたのが夜で、ラスベガス・ストリップのザ・デューンズ(現在のベラージオの場所)やアラジン(現在のプラネット・ハリウッドの場所)、ハシエンダ(現在のマンダレイ・ベイの場所)、シーザーズ・パレス、サハラ、スターダスト、サンダーバードなど続々と、当時の人気カジノの今とは全く違うネオンサインが挿入され、そこに、桜井センリ、石橋エータロー、安田伸など他のメンバーも参加、中でもネイティブ・アメリカンの酋長に扮した犬塚弘が異彩を放つ。全員集合してからは、ハナ肇に「ここは日本じゃないんだ。ラスベガスだぞ。真面目にやれ!」と檄を飛ばされ、最後はフレモント・ストリートを通行止めにして、大勢の見物客の前で、きっちり踊って締める。撮影日数は全く取れず、足りない分は日本で撮影した部分(深大寺植物園の駐車場)を編集して補った。フレモント・ストリートを通行止めにしての撮影は、フランク・シナトラやディーン・マーチンらラスベガスの顔役芸能人グループ、ラット・パックでもやらなかった快挙で、実現したのは渡辺晋社長の辣腕か。
ラスベガス名物の簡易結婚式場も出てくる。1967年当時は、18歳以上で身分証明書と、あとは、終日営業の役所で簡単に申請ができるクラーク郡のマリッジ・ライセンスがあれば結婚できるという事で、よく映画のネタに使われていたが、ここでは、悪党一味が谷啓をだまして、結婚式を挙げさせる。最終的に谷の持っていた、金貨を隠した廃坑の地図で100万ドルの金貨を探し当て、植木、ハナ、谷の3人は33万ドル(当時のレートで1億2,000万円)ずつ分けるのだが、植木は「八丈島を買い切って、ラスベガスに負けないような大博打場を開く。そして今まで博打はイカンと俺に意見したやつらを全部招待して素っ裸にして返すよ」と夢を語る。1960年代の日本で本物のラスベガスが描かれることが珍しい中、日本型IR実現に向かっている現状を予見したセリフに痺れる。
そこから最終コーナー、ギャングに襲われてカジノの中を3人が逃げ回る中、ルーレットに100万ドルの金貨の袋を落としてしまい、「00」に賭けたことに……。ところが、この「00」が大当たりで、なんと3,600万ドル(130億円)。しかし、このお金も最後は、ヒロインの浜美枝にはめられて、誰でも治療が受けられる病院建設に寄付して大団円。
ショーの舞台やカジノシーンなど、メインで出てくるリビエラ・ホテルは1955年にラスベガス・ストリップに9番目にオープンした老舗カジノで、高層階のリゾートとしては初で、デザインも革新的だった。オープニングはクラシックとポップスを融合させて大人気だったピアニスト、リベラーチェで、彼は常設のレジデントパフォーマーとなった。しかし、その後紆余曲折を経て、ラスベガスの各ホテルがテーマパーク化しIRに変化していく中、存在価値を失っていき、2016年に破壊され、跡地はラスベガス・コンベンションセンターの拡張に使われた。
ダンス・シーンでフィーチャーされる、街を代表する中心街、ラスベガス・ストリップだが、マッカラン国際空港から北に延びるラスベガス・ブールバード(大通り)のうち、東西に交差するサハラ・アベニューからラッセルロードまでの7本の道の間、長さ4.2マイル(6.8キロ)のエリアを指す。客室数で全米30傑のうち22のホテルがここに集まっていて、総客室数は84,000室を超える。このエリアに初めて開業した本格的なカジノは1941年のエル・ランチョ・ベガスで、次いで1946年にIRの原点ともいえるフラミンゴ・ホテルが開業した。冒頭で触れたカーコリアンの1962年ストリップ一帯の買収から更に加速がつき、人気カジノが次々と建設されて、ラスベガスの繁栄の象徴となった。